「親が元気なうちに売っておけばよかった」——不動産の相続相談を受ける中で、この言葉を何度聞いたか分からない。

認知症になってから売ろうとしても、本人の意思確認ができなければ売買契約は成立しない。成年後見制度を使えば売れるが、家庭裁判所の許可が必要で、1〜2年かかることも珍しくない。その間、空き家の管理費・固定資産税は発生し続ける。相続が発生すれば、きょうだい間で「誰が住むのか」「いくらで売るのか」の議論が始まる。実家という感情的な資産を巡って、家族関係が壊れるケースを私は数多く見てきた。

これらすべてを予防できる方法がある。「生前売却」だ。親が存命中に、親の意思で不動産を売却する。シンプルだが、最も確実な対策だと私は考えている。

生前売却とは

生前売却とは、親が生きているうちに、親名義の不動産を親自身の判断で売却することだ。相続を待たずに売る、というだけの話だが、税制・手続き・家族関係のすべてにおいて、相続後の売却とは大きく異なる。

ポイントは「親の判断能力があるうちに」という点だ。不動産の売買契約は、売主本人が契約内容を理解し、自らの意思で署名・押印する必要がある。認知症が進行して判断能力が失われると、この手続きができなくなる。だからこそ、親が元気なうちに動くことが重要になる。

生前売却の5つのメリット

1. 親の意思で売却できる

最大のメリットはこれだ。親が自分の意思で「売る」と決め、自分で契約書に署名できる。当たり前のことに聞こえるが、認知症が進行した後では、この「当たり前」ができなくなる。

厚生労働省の推計によると、2025年時点で65歳以上の約5人に1人が認知症またはその前段階にある。80代では約3人に1人だ。「うちの親はまだ大丈夫」と思っていても、数年後にどうなるかは誰にも分からない。判断能力があるうちに行動するのが唯一の確実な方法だ。

2. 売却代金を介護・医療費に充当できる

親の不動産を売却すれば、まとまった現金が手に入る。これを親の介護費用や医療費に充てることができる。特別養護老人ホームの入所待ちの間に有料老人ホームに入る場合、入居一時金だけで数百万〜数千万円かかることがある。年金だけでは賄えない介護費用を、不動産という「固定された資産」を「使える現金」に変えることで対応できる。

相続後に売却する場合、遺産分割が完了するまで売却代金は相続人全員の共有財産となり、自由に使えない。親の生前に売っておけば、こうした制約はない。

3. 遺産分割がシンプルになる

相続トラブルの大半は、不動産が原因で起きる。不動産は現金のように「均等に分ける」ことが難しい。「実家をどうするか」で、きょうだい間の関係が壊れるケースは枚挙にいとまがない。

生前に不動産を売却して現金化しておけば、遺産分割は格段にシンプルになる。現金であれば法定相続分に応じて正確に分けられる。不動産という「分けにくい資産」を「分けやすい現金」に変えておくことは、親が子どもたちに残せる最大の配慮かもしれない。

4. 空き家リスクを回避できる

親が施設に入居したり、子どもと同居したりして実家が空き家になると、さまざまなリスクが発生する。建物の劣化、不法投棄、防犯上の問題、固定資産税の負担、近隣からの苦情。2015年に施行された「空き家対策特別措置法」により、管理不全の空き家は行政指導の対象になり、固定資産税の優遇措置が外される可能性もある。

生前に売却してしまえば、こうした空き家リスクはそもそも発生しない。空き家の管理に使う時間・労力・費用をゼロにできる。

5. 居住用の3,000万円特別控除が使える

親が自宅として住んでいた不動産を売却する場合、譲渡所得から最大3,000万円を控除できる「居住用財産の3,000万円特別控除」が使える。これは非常に大きな税制メリットだ。

たとえば、親が30年前に2,000万円で購入した自宅を4,000万円で売却した場合、譲渡所得は約2,000万円(取得費・譲渡費用を簡略化)。3,000万円控除を適用すれば、譲渡所得はゼロになり、譲渡所得税は一切かからない。

ただし、この特例は「居住用」であることが条件だ。親がすでに施設に入居している場合でも、住まなくなった日から3年後の12月31日までに売却すれば適用できる。この期限を過ぎると使えなくなるので、タイミングが重要だ。

生前売却のデメリット

親の心理的負担

最大のハードルは、親の気持ちだ。何十年も住み慣れた家、子どもたちが育った家、配偶者との思い出が詰まった家。それを手放すことへの抵抗感は、経済合理性では割り切れない。「家を売れ」と言われたと受け取られれば、親子関係にヒビが入りかねない。

この問題は後述する「親との話し合いのコツ」で詳しく触れる。

譲渡所得税が発生する可能性

3,000万円特別控除を使っても、それを超える譲渡所得がある場合は課税される。所有期間が5年超の長期譲渡所得の場合、税率は約20%(所得税15%+住民税5%+復興特別所得税)。たとえば譲渡所得が4,000万円なら、控除後の1,000万円に対して約200万円の税金がかかる。

ただし、相続後に売却する場合も譲渡所得税は発生する。生前売却だけのデメリットではなく、「いつ税金を払うか」の問題だ。

売却代金の管理

数千万円の売却代金が親の口座に入る。この管理をどうするかは、意外と難しい問題だ。親が高齢の場合、詐欺被害のリスクがある。かといって子どもが管理すると、きょうだい間で「使い込んでいるのでは」という疑念が生まれることがある。

売却代金の管理方法は、売却前に家族で取り決めておくべきだ。信託口座の利用や、家族信託の枠組みの中で管理する方法もある。

住み替え先の確保

親が自宅を売却するなら、次の住まいを確保する必要がある。子どもとの同居、賃貸住宅への転居、高齢者向け住宅や施設への入居など、選択肢はいくつかあるが、高齢者の賃貸契約は断られるケースもあるのが現実だ。売却の話を進める前に、住み替え先の目処を立てておくことが重要だ。

生前売却と相続後売却の比較

項目生前売却相続後の売却
手続きの主体親本人(委任状で代理も可)相続人(遺産分割協議が前提)
税制優遇居住用3,000万円特別控除取得費加算の特例・空き家特例
相続登記不要必要(2024年4月から義務化)
共有リスクなし(親単独で売却)相続人全員の合意が必要
売却までの期間通常3〜6ヶ月遺産分割+相続登記+売却で1年以上
認知症リスク判断能力があれば問題なし相続後は関係ないが、生前に凍結リスク
売却代金の使途親の介護・医療費に充当可能相続財産として分割対象
空き家期間短い(売却活動中のみ)長期化しやすい

相続後の売却にも「取得費加算の特例」というメリットがある。相続税を納付した場合、相続税の一部を取得費に加算して譲渡所得を減らせる制度だ。また、2016年以降は「空き家の3,000万円特別控除」も創設され、一定の要件を満たせば相続後の売却でも3,000万円控除が使える。

ただし、空き家特例は「昭和56年5月31日以前に建築された旧耐震の建物」「相続開始直前に被相続人が一人で住んでいた」など、要件が厳しい。生前売却の3,000万円控除のほうが、はるかに使いやすい。

生前売却を進める手順

ステップ1:親との話し合い

最も重要で、最も難しいステップだ。いきなり「実家を売ろう」と切り出せば、ほとんどの親は拒否反応を示す。話し合いの進め方は後述する。

ステップ2:不動産の査定

親が「話を聞いてもいい」という段階になったら、まず査定を依頼する。査定は無料だ。複数の不動産会社に査定を依頼し、相場を把握する。この段階では「売る」と決めたわけではなく、「いくらになるか知る」だけだ。このスタンスが大切だ。

査定価格が分かれば、売却後にいくら手元に残るか、税金はいくらかかるか、住み替え費用を差し引いても老後資金として十分かどうか、具体的な数字で判断できる。

ステップ3:売却の意思確認と代理人の検討

親が売却に同意したら、意思確認を明確にしておく。高齢の親の場合、売買契約の場に同席できないこともある。その場合は委任状を作成し、子どもが代理人として手続きを進めることができる。

ただし、委任状による代理でも、司法書士や不動産会社は本人確認を行う。親の判断能力に疑義がある場合は、取引が成立しないリスクがある。だからこそ、判断能力が明確なうちに動くことが重要だ。

ステップ4:媒介契約・売却活動

不動産会社と媒介契約を締結し、売却活動を開始する。通常の不動産売却と同じ流れだ。内覧対応、価格交渉、買主の決定、売買契約、引渡し。親が居住中の場合は、引渡し時期を住み替え先の確保と合わせて調整する必要がある。

ステップ5:売却代金の管理方法の決定

売却代金をどう管理するかは、家族で事前に合意しておく。親の口座に入金されるが、その後の管理方法として以下の選択肢がある。

  • 親名義の定期預金にして、必要に応じて取り崩す
  • 家族信託の信託口座で管理する(後述)
  • 任意後見契約を結び、後見人が管理する

きょうだいがいる場合は、特定の子どもだけが管理すると後々トラブルの原因になる。透明性のある管理方法を選ぶことが大切だ。

親との話し合いのコツ

生前売却の最大のハードルは、親の同意を得ることだ。30年の実務経験で、うまくいったケースに共通するポイントを整理する。

「売れ」ではなく「いくらになるか調べてみない?」

最初のアプローチが肝心だ。「実家を売ったほうがいい」と言えば、親は「追い出される」と感じる。そうではなく、「最近この辺りのマンション、けっこう高く売れてるみたいだよ。いくらになるか調べてみない?」という切り出し方が有効だ。

売ることを前提にしない。まず「資産の価値を知る」というスタンスから始める。査定結果を見て「こんなに価値があるんだ」と親が驚くことも多い。価値を知ることが、次のステップへの自然な橋渡しになる。

維持コストの数字を見せる

「固定資産税が年間○万円、修繕費が○万円、管理費が○万円、火災保険が○万円。合計で年間○万円かかっている」。具体的な数字を見せると、親自身が「もったいないな」と感じることがある。感情ではなく数字で語ることが大切だ。

「迷惑をかけたくない」という気持ちに寄り添う

多くの親は、子どもに迷惑をかけたくないと思っている。「空き家の管理、大変なんだよ」「相続の時に揉めるの、嫌だよね」ではなく、「お父さん(お母さん)の負担を減らしたい」「将来、相続で困らないように一緒に考えたい」という伝え方が効果的だ。

親を責めるのではなく、「一緒に考える」というスタンスを徹底する。結論を急がず、何度も話し合いの機会を設けることが重要だ。

家族信託との併用

「今すぐ売るのは抵抗があるが、将来的には売却するかもしれない」——こういうケースでは、家族信託の活用が有効だ。

家族信託とは、親(委託者)が信頼できる子ども(受託者)に不動産の管理・処分権限を託す契約だ。親の判断能力があるうちに信託契約を結んでおけば、仮にその後認知症になっても、受託者である子どもが不動産を売却できる。

つまり、家族信託を「保険」として設定しておき、売却のタイミングは柔軟に判断できる。「今は売らないけれど、いざという時に売れる状態にしておく」という選択が可能になる。

家族信託には公正証書の作成費用、信託登記の費用などで数十万〜100万円程度のコストがかかるが、成年後見制度の月額費用(2〜6万円が継続的に発生)と比べれば、トータルコストは抑えられるケースが多い。詳しくは認知症になる前に知っておきたい不動産の家族信託で解説している。

実例:生前売却でスムーズに介護資金を確保できたケース

父親(82歳)が軽い脳梗塞で入院し、退院後は自宅での一人暮らしが難しくなった。長女と長男で話し合い、父親に「有料老人ホームに入る費用を、家を売って作ろう」と提案した。

父親は最初「まだ家に帰れる」と渋ったが、退院後のリハビリ期間中に長女が査定を取り、「この家、3,200万円の価値があるんだよ」と伝えた。父親は驚き、「そんなにするのか。それなら施設の費用も十分だな」と前向きになった。

幸い父親の判断能力は十分にあり、売買契約にも自ら署名した。居住用の3,000万円特別控除を適用し、譲渡所得税はゼロ。売却代金は父親名義の定期預金に入れ、施設費用を毎月取り崩す形にした。長女と長男で通帳のコピーを共有し、使途の透明性も確保した。

結果、父親は入居一時金500万円、月額利用料20万円の有料老人ホームに入居。売却代金で約10年分の費用を確保でき、年金と合わせれば資金面の心配はなくなった。きょうだい間の関係も良好なまま、父親も「子どもたちに面倒をかけなくて済む」と安心している。

実例:先送りして認知症発症、2年間売却できなかったケース

母親(78歳)が一人暮らしをしていた実家。長男は「まだ元気だから大丈夫」と売却の話を先送りにしていた。母親自身も「この家を離れたくない」と言い続けていた。

2年後、母親にアルツハイマー型認知症の診断が出た。症状は徐々に進行し、一人暮らしが困難に。長男は母親を自宅に引き取り、実家は空き家になった。

空き家の維持費は年間約40万円(固定資産税15万円、火災保険5万円、草刈り・清掃20万円)。長男は売却を決意したが、母親には契約内容を理解する判断能力がなく、売買契約を結べなかった。

やむを得ず成年後見の申立てを家庭裁判所に行った。申立てから後見人の選任まで約4ヶ月。さらに後見人が「居住用不動産の処分」の許可を家庭裁判所に申請し、許可が下りるまで約3ヶ月。ようやく売却活動を開始できたのは、認知症の診断から1年半後だった。

売却自体にも6ヶ月かかり、結局、実家が空き家になってから約2年間、売却できなかった。その間の維持費は約80万円。後見人への報酬は月額3万円で、母親が存命の限り支払いが続く。仮に10年続けば360万円。母親が元気なうちに売却していれば、これらの費用はすべて不要だった。

「まだ早い」が最大のリスク

生前売却を勧めると、必ず言われるのが「まだ早いのでは」という言葉だ。しかし、30年この業界にいて断言できるのは、「まだ早い」と言っている間に手遅れになるケースが圧倒的に多いということだ。

認知症は突然やってくるわけではない。軽度認知障害(MCI)の段階では、日常生活は普通に送れるが、不動産売買契約のような複雑な法律行為の判断能力は怪しくなる。契約の場で司法書士が「この方は大丈夫ですか」と疑義を呈すれば、取引は中止になる。

生前売却は、親が元気で、判断能力が十分にあり、家族で冷静に話し合える時にしかできない。つまり「今」が最も条件が良いタイミングである可能性が高い。

もちろん、すべてのケースで生前売却が最適解とは限らない。親が自宅に住み続けることを強く望み、介護資金にも余裕があるなら、無理に売る必要はない。ただし、その場合でも家族信託だけは設定しておくことを強く勧める。「売れる状態」を確保しておくことと「実際に売る」ことは別の話だ。

親が施設に入る場合の判断については親が施設に入ることになったら実家をどうするかを、相続後の対応については相続した不動産、どう処分するのが正解かも参考にしてほしい。お住まいのエリアの不動産相場は都道府県ページから確認できる。

この記事のまとめ

  • 生前売却とは親が存命中に、判断能力があるうちに不動産を売却すること
  • 認知症発症後は売却が原則不可能。成年後見制度を使っても1〜2年かかる
  • 居住用なら3,000万円特別控除が使え、多くのケースで譲渡所得税がゼロになる
  • 不動産を現金化しておくと、遺産分割が格段にシンプルになり相続トラブルを予防できる
  • 親との話し合いは「いくらになるか調べてみない?」から始め、数字で語り、結論を急がない
  • 家族信託を「保険」として設定しておけば、売却タイミングを柔軟にコントロールできる
  • 先送りのコストは維持費・後見人報酬・機会損失で数百万円に及ぶことがある
  • 「まだ早い」ではなく「今が最も条件が良い」と考えて行動すべき